大府の歴史

 

 

● 中世

 

■ 鎌倉・室町

 12世紀末期、鎌倉幕府成立により、全国に守護地頭が設置されると、尾張国には守護として小野氏・中条氏・名越氏(北条氏一門)が任命され、尾張国内の荘園には地頭が設置され、幕府の御家人が入部し、幕府の支配が及ぶようになった。
 14世紀中ごろ成立した室町幕府でも守護地頭は設置され、守護は中条氏や土岐氏が就いたが、その後知多郡は三河国守護一色氏(足利氏の支族)が治めることとなった。しかし、市域に関しては史料がほとんどなく、具体的な状況を説明できないが、応永16年(1409)正月11日付の「熊野旦那職譲状写」(『米良文書』)に「横根郷」が記されるなどわずかに地名が知られる程度である。
 14世紀末期、知多郡では、緒川(東浦町)の水野氏(鎌倉時代緒川郷の地頭であった小川氏の後裔)が旧地に戻り、緒川城を築いてこの地域に勢力を伸ばし始めた。初代城主水野貞守は、隣国の刈屋(現:刈谷)や横根・大府(当時は「大符」とか「大夫」とか「大部」と表記した)などをおさめ、大府市域は水野氏の支配下にあったと思われる。

 

■ 戦国

 応仁の乱以後、幕府の権力の衰退とともに地方も乱れはじめた。尾張国内も各地で動揺がおこり、守護斯波氏にかわり守護代織田氏やその一族が実権を握りはじめた時期であった。
 尾張国西部は織田氏が押さえたが、知多半島北部に勢力拡大を図る水野氏は織田氏と衝突することが増加した。

延命寺全景
(延命寺全景)

 しかし、織田氏と和睦した水野氏は半島北部を確保した。
 延命寺(大東町)には水野氏およびその関係者による土地の寄進状や売券などの古文書が伝来し、また水野氏系図の写などもあり、市域が水野氏の支配下にあったことが裏付けられる。

石ヶ瀬川古戦場
(石ヶ瀬川古戦場)

 東への進出をもくろむ駿河の今川氏の勢力は尾張国にまでおよびはじめ、永禄元年(1558)から同4年にかけて、石ヶ瀬川畔(大府市と東浦町境付近)で織田氏対今川氏、水野氏対松平氏の合戦(石ヶ瀬川の合戦)がたびたびおこり、織田・今川両勢力の攻防が半島各地の城をめぐって繰り広げられた。

 そして、桶狭間の戦いで今川義元が討死し、今川氏の勢力は後退した。この戦いに勝利した織田信長は今川方の松平元康(のちの徳川家康)と和睦し、尾張国を統一した。市域には追分城(追分町)や横根城(横根町)の築城や首塚(中央町・若草町など)の存在など、戦乱の世の痕跡が伝えられている。

 

 

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