大府の歴史

 

 

● 原始古代

■ 原始

 市域に人の活動の跡が確認できる最古は、市北部の共栄遺跡(共栄町)での旧石器時代の石器の発見である。
 縄文時代になると、衣ケ浦沿岸地域では多くの貝塚があらわれ、縄文晩期(紀元前1000年頃から300年頃)の桟敷貝塚(朝日町)では土器・石鏃(せきぞく)が確認され、また弥生時代後期(2世紀から3世紀頃)には市北西部の子安神社遺跡(共和町)があり、この地域にも米作りの技術が伝播したと推定される。

 古墳時代(3世紀後半以降)には高山古墳(中央町)や惣作遺跡(横根町)などの遺跡があり、境川流域で人々が生活していたと想定される。

高山古墳
(高山古墳)

 

■ 古代

 6世紀に入り、中央における倭王権の成立発展の時期を迎え、地方に対する支配も整備され、この地域にも国造(くにのみやつこ、倭王権の地方官)・屯倉(みやけ)などが設置され、尾張氏が国造に任じられ、当地域も同氏の支配領域であった。7世紀中ごろから、律令国家を目指した中央は、地方制度も強化し、各地に国郡里(8世紀以降は郷になる)を設置した。市域は尾張国に属し、境川の東は三河国であった。
 国内には郡が設定されていたが、平城京跡出土木簡などの史料の検討から市域が現在の知多郡(智多郡)とすべて重なることはなかったようで、共和町木ノ山付近は愛智郡との説もある。『和名類聚抄』には知多郡には但馬郷・贄代郷・番賀郷・英比郷・冨具郷の5郷あり、大府市域は番賀郷に含まれると推定されている(『愛知県の地名』)。
 平安時代中期以降、日本各地で荘園制が展開してくると、尾張国衙領・熱田社領などの領域が入り乱れた状態で、市域の一部は熱田社領御幣田郷に組入れられ、また鳴海庄・生道郷・英比郷などの荘園の領域もあったようである。特に吉田第1号窯・吉田第2号窯(吉田町)では鳥羽上皇(1103〜56)が住んだ宮殿の鳥羽離宮東殿(京都市)で使用した瓦を焼いたことが発掘調査で確かめられており、社山古窯(東海市)の瓦とは同范(どうはん)であることや周辺に輸田古窯・権現山古窯(共に東海市)が集まっていることなどは当地域と都との関係をうかがわせるとともに、当地域における荘園の展開と無関係ではありえないことが指摘できる。

 

■ 窯業生産

 5世紀後半に始まる須恵器生産や平安時代に草木の灰を釉薬として用いた灰釉陶器生産に続く、“やきもの”の生産が、三河国猿投山西南麓から尾張国東部の丘陵に展開した。これら古窯群は猿投山西南麓古窯群と総称され、その外縁が市域にも達していたことが野々宮古窯(宮内町)・高根山C古窯群(北崎町)・籠染西古窯(吉田町)などで確認されている。その後、灰釉陶器より質の劣る土を使用して製品を焼いた中世山茶碗窯が市内全域でも生産されはじめ、平安時代末期を初現とし、鎌倉時代から室町時代初期まで続いた。

吉田第1号窯出土品
(吉田第1号窯出土品)

 窯の築かれる場所は丘陵地で、現在までに市域で約100箇所(窯の数は推定で200基以上)を確認している。代表的なものは、中世山茶碗窯の初期と思われる高根山古窯群(北崎町)、瓦を焼いた吉田第1号窯・吉田第2号窯(吉田町)、広口長頸壺を焼いた神明古窯群(半月町)、市内最大の窯数を誇る羽根山古窯群(横根町)などがある。

 

 

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