大府の歴史

 

 

● 近世

■ 近世

 関ヶ原の合戦後、尾張を支配した松平忠吉のあと、忠吉の弟五郎太(徳川家康9男)が尾張を領地とし、彼を祖として尾張徳川家が成立する。その支配機構が尾張藩で、江戸時代を通じて市域は尾張藩の支配に属した。
 慶長7年(1602)以降、幕府は全国統一的な検地を実施しており、慶長13年に尾張藩でも検地が実施され、その帳簿を『慶長検地帳』という。市内では、半月村・横根村・吉川村の分が残存している。

明暦2年横根村慶長検地帳写
(明暦2年横根村慶長検地帳写)

 寛文11年(1671)、藩は領内の村を調査し、状況把握に努めている。その記録によると市域は木之山村はじめ11ケ村があり、主に農業生産を行う村だったようである。また『尾張徇行記』(文化年間成立)にも「農業ヲ専ラ生産トス」とする以外に特に目立つ産業の姿はみえない。農業生産を主力とした境川流域では積極的に新田開発を行われるようになり、市域の追分新田村や又右衛門新田などが開かれた。

五ヶ村川絵図
(五ヶ村川絵図)

 また衣ケ浦の入江であった奥まったところ(近崎村・北尾村・横根村・大符村など)は、境川の土砂堆積により次第に埋め立てられ、新田として開発される一方、排水問題が発生し、流域の五ケ村(現豊明市・大府市・東浦町にまたがる村と地域)は協力して悪水(不要な水)を処理する土木工事を実施し、川の新開削・杁の設置などをおこなった。また内陸部では水の確保のため溜池の開削を行った。

 農民の生活は、年貢などの各種負担のほか、東海道の宿場鳴海宿に近接した村々は、助郷として課役を負担していた。人と物との往来として、市域には東浦街道や緒川道があり、道しるべの石像や石柱が古い道の傍らに今も残っている。また隣国刈谷藩領内と交流もあったようである。
 18世紀後半、藩の在地支配の方法が変更され、領内各所に代官所(陣屋)を設置し、天明2年(1782)に鳴海陣屋が置かれ、市域の村はこの配下に入り、以後幕末までつづいた。

 

 

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