無所属クラブ会派行政調査報告 令和4年7月6日から8日まで

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ページ番号1024159  更新日 2022年8月5日

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令和4年7月6日から8日にかけて、自民クラブ及び無会派クラブと合同で、青森県八戸市、岩手県陸前高田市及び遠野市を視察しました。

八戸ポータルミュージアムについて【青森県八戸市】

 冒頭、八戸市議会の寺地則行議長より、まちの歴史や現在の課題などを交えて御挨拶いただいた後、八戸ポータルミュージアム副参事・総務経営グループリーダーより、これまでの経緯や取組についてのお話を伺った。

取組の背景及び目的

青森県八戸市

 八戸市は青森県東部の南部地方に位置し、歴代の南部家が治めた八戸藩の中核として栄えてきた歴史ある城下町である。東北有数の港を擁する漁業のまち、工業のまちであり、現在も約22万人の人口を抱える中核市として、県内主要3都市の一角に名を連ねる。八戸の夏の風物詩であり、コロナ禍以前には毎年100万人以上の観光客を集めてきた「八戸三社大祭」は、「山・鉾・屋台祭り」を代表する全国33の祭りの一つとして、ユネスコ無形文化遺産に指定されているほか、平成25年に陸中海岸国立公園の区域拡張とともに、国立公園として改めて指定された三陸復興国立公園の種差海岸など、豊かな自然資産にも恵まれている。
 一方、同市は長年にわたって深刻な人口減少に悩まされ続けており、10年ほど前から、まちの活性化と少子化対策が課題となっている。郊外型の大型店の進出もあり、中心市街地の衰退と商業機能低下への対処が急務であったことや、就職を契機に都会に出たまま戻ってこないことが若者流出の主因となっている点などを踏まえ、「まちの顔」である中心街に人を集め、若者にも受け入れられる活力を取り戻すことで、ひいては市全体の活性化を目指す取組が進められた。

取組の内容と現状

 八戸市では、平成20年度~24年度を計画期間とする「八戸市中心市街地活性化基本計画」を、平成20年7月9日に策定している。この計画には、「借り上げ市営住宅整備事業」など47事業が登載され、「八戸ポータルミュージアム」は「八戸市中心市街地地域観光交流施設整備事業」として、その整備が始まったものである。資材高騰により設計の一部が変更されたが、平成21年4月17日に着工し、翌年2月11日に開館した。整備費は総額で約12億円である。建設期間中の平成21年8月に施設の愛称を全国公募で「はっち」に決定し、翌年3月に正式名称が「八戸ポータルミュージアム」に決まった。「はっち」というネーミングには八戸の「八」のほか、英語の「hatch」(船や航空機等の出入口・生み出す)、着地型観光から発地型観光(施設を“portal”=表玄関に各地へ送り出す)への転換を指す「発地」という三つの意味が込められている。愛称だけでなく、「8」という数そのものに強いこだわりがあり、館内そこかしこに様々な仕掛け(八角形の中庭、8つの獅子頭など)が見受けられるのも特徴的である。
 市民にとっては「まちの魅力を知り、誇りに思える場所」、観光やビジネスで訪れた人たちにとっては「八戸に行ったら必ず寄ってみたい場所」、そして、「何度も訪れたくなる場所」を目指して整備された複合施設として、会所場づくり、貸館事業、館の自主事業が行われている。特に自主事業は、「地域の資源を大事に想いながら、新しい魅力を創り出すこと」を柱に、「地域の資源を生かすこと」、「市民とともに創りあげること」、「まちなかに回遊してもらうこと」を基本コンセプトに掲げ、「中心市街地の賑わい創出」、「文化芸術活動の振興」、「ものづくりを通した新しい価値の創造」、「八戸の魅力発信」、「観光を通じた地域活性化」をミッションとして、今も様々な取組が続けられている。
 開館から1カ月後の3月11日に発生した東日本大震災の際には、臨時避難所(約300名の被災者の宿泊を受入れ)となったため一時休館となったが、5日後には営業が再開され、入場者数はその後わずか半年あまりで50万人、開館1周年記念セレモニー当日に88万8,888人、さらにその1カ月後の3月11日には100万人、そして、開館から2年3カ月後には200万人を突破した。この盛況は周辺にも明らかに好影響を与えており、施設前の通行量は開館1年で24パーセント増、2年で89パーセント増となったほか、中心市街地全体でも1年で13パーセント、2年で33パーセント、それぞれ増加している。また、開館1年後、店舗を含め23もの事業所が中心街で新たに開業し、2年後にはさらに50事業所までその数を伸ばしているのも、中心市街地の活性化施策の政策効果としては驚異的な成果と言えよう。
 館内の各フロアはカフェ、ショップ、観光展示、「ものづくりスタジオ」、「こどもはっち」で構成されている。観光展示は、八戸の風土、民俗、歴史、産業ものづくり等がコンパクトかつ網羅的に展開されており、見応えのあるコンテンツ内容となっているほか、ものづくりフロアでは、デザイナーやまちづくり団体がブース出展を行っており、ボランティアガイドによる館内案内は親切でわかりやすいものであった。また、「こどもはっち」は、子どもと大人がゆっくり過ごせるエリアとなっており、NPO法人が指定管理で運営を行っている。木のぬくもりを生かした交流空間として、極めて人気が高いとのことであった。
 従来の施設と比較して類を見ない様々な点が評価され、平成25年に文化庁長官表彰を、平成28年には「地域創造大賞」を受賞している。「八戸市中心市街地活性化基本計画」が、その後も2期、3期と継続されてきた中で、中心市街地に新たな民間開発の動きも出ており、平成30年には、八戸まちなか広場「マチニワ」がオープンした。

今後の課題

 開館から10年が経過したことで展示が古くなってきていることや、施設のメンテナンス面での課題が出てきているとのことであった。約12億円を要した整備予算には、国土交通省のまちづくり交付金事業や合併特例債も活用されているが、鉄筋コンクリート造の地上5階建て(免震構造)、延床面積6,463平方メートルにも及ぶ大規模施設なだけに、今後の中長期にわたる施設修繕や設備更新等について、財源の計画的な確保の点からも決して容易ではない側面は想像に難くない。

所感及び大府市への反映

 ミュージアム(地域文化の発信)に交流、観光を加えた複合施設であり、その機能が集約されたことで、コンテンツとしての密度は極めて濃く、退屈させないものになっているが、観光展示については歴史や風土、産業等の内容を網羅するために、内容をかなり絞り込んでいるのではないかと思われ、そこにかなりの労力をかけたであろうことが推察された。また、それにより、各分野に対して関心が高く、より深く知りたい客には、表面的に見えてしまう可能性があるように感じた。官民連携や市民協働の側面では、館内のボランティアガイド、市民作家による作品展、NPOの指定管理で運営されている「こどもはっち」など、多くの活発な取組が見受けられるほか、令和3年には、まちづくり団体「八戸中心街まちぐみ」が「あしたのまち・くらしづくり活動 総務大臣賞」を受賞するなど、この施設を拠点に市民や民間の活動が広がり、継続し、定着している点は、「せっかく多額の予算を使って建てた活性化施設に閑古鳥が鳴く」といった、ありがちな失敗例を回避するためにも、大いに参考とすべき事例であると言えよう。
 八戸ポータルミュージアムは、単に機能が集約されているだけでなく、芸術的なセンスや地域愛も盛り込まれたすばらしい施設である。しかしながら、核となる良質なハードを整備しただけで、ここまで成功するものだろうかという疑問も感じた。施設の整備は、あくまで「八戸市中心市街地活性化基本計画」における施策の一つとして、計画全体を成功へと導く有効な仕掛け、トリガーになったのでないかと考える。なお、この施設はバス通りに面していない一方、向かいの建物を通り抜け可能な憩いの広場「マチニワ」として整備したことで、最寄りのバス停へのアクセスも簡便となるような構成になっている。多額の投資で新築した拠点施設の波及効果を、隣接の再開発で周辺にも広げる手法ではないかと推察したところである。
 統計上、通行量が増えたことや、新規事業所が増加したことは確かに大きな成果と言えるが、実際にバスで移動してみたところ、施設周辺の局所的な変化にすぎないのではないかという疑問も残る。中心市街地の活性化が市内の全域、あるいは市民全体にどう影響しているか、今回の視察の範囲ではわからなかった部分をもう少し掘り進めていきたいと思う。「まちづくり計画」や「立地適正化計画」の策定、実施へと進んでいく本市にとって、中心市街地の核となる施設の重要性や、どのような機能を持たせることが良いのかといった論点を考察する上で、大いに参考となる視察であった。

復興について・陸前高田市議会東日本大震災の対応と復興に向けた10年について【岩手県陸前高田市】

 陸前高田市については、二つのテーマで視察を行った。一つ目は「復興について」、執行部から説明を受け、二つ目は「陸前高田市議会東日本大震災の対応と復興に向けた10年について」、市議会から説明を受けた。

 岩手県の南東部に位置し、太平洋に面する陸前高田市は、東日本大震災で発生した大津波により、市役所庁舎を含む市中心部が壊滅状態となったほか、市内全世帯の実に7割以上が被害を受けた。1,559名の尊い命が犠牲となり、202名の方々は今も行方不明のままである。
 陸前高田市役所に伺う前に、まず高田松原津波復興祈念公園を訪問し、視察の一行全員で海に向かって黙とうをささげた。震災遺構である「ユースホステル跡」と「奇跡の一本松」には直接歩いて立ち寄り、他の遺構はやや離れた場所から見ることとなった。「タピック45」と「下宿定住促進住宅」では、5階部分の床上相当の高さに、当時の津波高を示す看板が取り付けられているのが見て取れた。
 また、東日本津波伝承館を見学し、現地と後方支援に当たった多くの自治体と国との連携、想定外と規定外の対応を重ねた記録を知ることができた。「行政はマニュアルにないことはできない」と言われるが、人命救助と被災者支援のために最善策を考え抜いた結果として、厳密には「規定外」となる対応が大なり小なり行われていたこともわかった。
 その後、陸前高田市役所へ赴き、建設部長、建設課長兼復興支援室長、陸前高田市議会の福田利喜議長から、上記二つの視察テーマについて、それぞれお話を伺った。
 

 

東日本大震災からの復興の取組状況について

岩手県陸前高田市

 東日本大震災において、陸前高田市では市内世帯数の99.5パーセントが地震又は津波の被害を受け、応急仮設住宅等への入居状況は最大で2,139世帯、5,635人にのぼった(現在は0)。既に被災世帯の87.2パーセントが再建済み(令和4年4月末時点)で、最も多いのは市内での自力再建(賃貸へ転居、補修含む)、次いで「防災集団移転・区画整理・がけ近接等移転事業」となっている。市外での再建、公営住宅への入居のほか、多くないものの親戚宅居住の例もあるとのことである。陸前高田市では、平成22年~平成30年を計画期間とする「陸前高田市震災復興計画」を策定し、国費の支出を受けて復興に着手した。計画期間は10年が基本だが、一日でも早く進めたいとの思いから8年間で実施し、期間満了後は「陸前高田市まちづくり総合計画」に引き継いで、復興を進めていくこととした。
 土地区画整理、防災集団移転促進事業、災害公営住宅の三つを柱に、被災市民の生活再建事業を実施。区画整理事業については、「飛び地換地」という手法で、高台に整備した区画整理に換地移転を進めた。中心市街地はかさ上げが実施されたが、陸前高田市における盛土かさ上げ地の面積は、東日本大震災で被災した自治体の中で最大である。なお、事業所の再建状況(商工会会員数データ)については、被災した604事業所(86.4パーセント)のうち、令和4年4月末時点で営業再開できたのは約半数の294、市外転出が25となっており、このほかに廃業又は脱退が279、6事業所はいまだ再開できていないとのことである。
 インフラ面では、まず、防潮堤について市は県に対して18メートルを要望したものの、最終的に12.5メートル(L1津波の想定)となった。水門については、閉門のために河口へと向かった人々が津波に飲まれた反省から、自動開閉で再建された。また、道路網の再整備は、災害時だけでなく経済復興、交流人口の確保・維持のためにも非常に重要であることから、「復興道路整備事業」における都市計画道路等の整備も進められ、令和3年度には国道45号の整備未定区間を除き、すべて完成済みとなっている。
 

議会の災害対応・震災復興と議会

 東日本大震災が起きた平成23年3月11日は3月定例会の会期中であり、3常任委員会が開催されていたが、地震発生により散会となった。その後、議員は庁舎内に残った者、自宅へと戻った者に分かれ、午後3時26分頃に市街地を襲った津波により、住民の避難誘導に当たっていた議員2名が死亡した。3月15日、3月定例会は最終日を迎えたが、本会議は開催されずに流会となり、新年度予算が未成立のまま閉会した。3月28日に、市立中学校の校舎にて臨時会が開かれ、新年度の当初予算等を年度末ギリギリで議決することができたものの、陸前高田市議会の苦難はその後も続いた。6月には、議会で陣頭指揮を執っていた議長が体調不良を訴え、その後、療養のかいなく死去したため、地方自治法の特例で6カ月延期されていた市議選の直前だったにもかかわらず、議長選出のための臨時会が開催されている。
 議員は、自身も被災者となった者、自宅は無事であったものの地域が被災した者、地域も自宅も被災しなかった者とに分かれることとなったが、福田議長は当時を振り返って、この間にも「消防団活動や避難所支援など、議員個々として、できることはしていたと思う」という。地域も自宅も被災しなかった一方で、「どうしたらいいかわからず、動けなかった」という議員もいたとのことであり、住民からは「議員が何をしているか見えない」、「避難所回りもしない」と批判されることが実際にあったそうだ。こうした背景もあった中で、陸前高田市議会は、議会として大震災への対応が取れなかったことや、初動において有効な議会活動を担えなかったことへの反省から、「災害対策行動マニュアル」を作成している。議員としての行動原則を定め、災害発生後を三つのフェーズ(初動期=発災当日~翌日・中期=発災日から7日・後期=発災から8日目以降)に分けた上で、それぞれの行動基準を示したもので、地震発生時、津波警報等発表時のフローも整備された。また、当局に対して個別に要望等を行ったり、中には我田引水ではないかということが起きたりしたため、執行部への意見等は議会内で集約するようにしたとのことである。
 復興に向けた議会の対応としては、復興計画(国の復興予算の必須要件)を議会基本条例で定める議決案件に追加したほか、復興計画検討委員会に議員3名を入れることとなった。ただ、議会としての意思や総意を反映させる仕組みがなく、3名の議員の委員としての意見が個人的なものになってしまった経験から、後の復興計画推進委員会に対しては議員の参画を見送っている。復興計画の事後検証は、全議員を委員とする特別委員会を設置し、一般質問とも議案審査とも別の枠組みの中で現場を見たり、担当課に聞き取りも行ったりしているとのことである。ただし、特別委員会での検証は難航しており、「国費事業の検証、チェックを通じて、次世代に向けた提言も行う必要がある」という意見がある一方、「検証は当局でやっているので、もういいのではないか」との声もあるなど、議員の中で見解の違いがあるという。住民と議会についても話があり、「行政は苦労してやっているのはわかる。今までにない事態なのもわかる。だから、行政説明会では何も言わない」という住民も、「議員と語る会」では辛辣でストレートな意見を述べるそうだ。防潮堤に関する住民間の議論では、「高さを先に決めないとまちづくり計画が始まらない」という意見に対し、「海が見えないと危機もわからない。とにかく逃げることが優先で、防潮堤の話は後」との主張も出るなど、住民意見をまとめる難しさも感じたという。
 「議員個々の情報収集能力が足りなかった。行政区分(国・県・市)などへの議員の勉強も足りていなかった。議員がふだんから制度や専門的知識を持っておく必要があった。これがなければ、提案を丸のみするしかなくなってしまう」と、反省の弁を口にされた福田議長はまた、「住民の代弁者たり得たか」、「行政と住民の間のコンパイラになり得たか」、「今後、起こるべき事象を想像しているか」、「それに対する政策は考えているか」とも述べられた。例えば住宅再建について、家主にお金があっても「既に高齢なので、家を再建したところでそう遠くない将来、空き家になってしまう(だから再建しない)」といった事情は、再建割合のデータだけでは見えてこないといった課題や、また、区画整理をすべてUR都市機構に任せた点についても、「URは都市部での住宅供給が仕事であり、駐車場が少ないなど、地域性に合った整備ではなかったという課題も残った。議会がもっと矢面に立って、過程で意見を言える場面もあったのではないか」という話など、今も過去を振り返って真摯に自問を続ける福田議長の姿勢は、住民代表としての誠実さを強く感じさせるものであった。

所管及び大府市への反映

 復興祈念公園や食事会場の周辺など、先に現地を見たことで、防潮堤の議論などについては、特に実感を持って話をお聞きすることができた。復興計画は、国と自治体との間で認識を共有しながら復興を進めていくための羅針盤であり、いかに現場が混乱を極めている状況であろうと、一刻も早く策定しなければならないものであることがよくわかった。一方で、被災した住民の現状や思いなどを早急にくみ上げながら、計画策定を短期間で行うというのは決して容易なことではない。
 津波災害が想定されない大府市であっても、一たび激甚な災害が起きれば、国及び県との速やかな連携、分担は必須である。災害対策といえば、防災や備蓄に関する提言が、本市議会でも多くの議員から一般質問等でなされているが、被災からの復興プロセスを頭に入れつつ、どのフェーズで誰とどのような検討をしないといけないか、あるいは、どこが財源と権限を持っているかなど、時間軸と話し合うべき相手先等を、ふだんから広い視野でイメージしておく必要性について深く学べたことが、この視察で得られた最大のポイントと言えよう。
 陸前高田市における住宅再建率は87.2パーセントに上っているものの、かつて暮らしたコミュニティの再建はまた別の議論となってくる。集団移転に合意した個々の世帯や、以前とは別の場所に居を構えることとした世帯を含め、住民それぞれの生活の復興が進む中で、かつての単位で存続が図られている地域のお祭りなども、今後は次第に現住のコミュニティにおいて再形成されていくであろうと見られている。「住むところがない」という段階からの復興は果たされたが、住民の“暮らしの復興”の道のりはこれからもまだまだ続くのである。
 陸前高田市では職員の被災死も多かったため、災害発生直後は深刻なマンパワー不足に陥ることとなった。この状態で国や県、他自治体からの派遣支援職員とともに復興計画づくりを進めなければならなかった当時の実情も、住民や議会が行政に対して本音をなかなか言えなかった背景にあると思われる。住民が行政に遠慮して言えないことも議員には言ってくれるというのは、頼りにされている裏返しではないかと受け取れる一方、「誰でもいいから不満や苦悩を受け止めてほしい」という心情もあるのではないかと推察する。間に立って聴くだけにとどめず、議会という組織として議論し、まとめた意見を執行部に持っていく仕組みをふだんから持っておく必要性も、福田議長のお話を通じて大いに感じたところである。
 被災当時から現職にある議員は、今後も次々と代替わりしていくことになる。住民からの批判や議員としての当時の苦悩など、今しかお聞きできない大切なお話をお聞きすることができた。東日本大震災から11年がたち、ようやく様々なことを振り返ることができるようになった今、他の被災地でも当時のお話を是非お聞きしていきたいと考えている。災害発生時には、多くの混乱が発生するさなか、住民から要望も苦情もお聞きし、一方で行政の邪魔をしてはならない苦しい立場となる議員として、腹をくくらなければならないと改めて強く感じた。

ビールの里づくり協議会(TKプロジェクト)について【岩手県遠野市】

 一行全員で多田一彦市長を表敬訪問した後、産業部長、産業企画課長より、これまでの経緯や取組についてのお話を伺った。

取組の背景及び目的

岩手県遠野市

 大府市との友好都市提携が結ばれてから12年が経過した遠野市は、北上高地の遠野盆地に位置することから、冬には最低気温が-15℃を下回る日もある寒冷な気候とともに、豪雪地帯としても知られる。上宮守村と合併した平成17年当時31,000人を超えていた人口は、令和4年5月末時点で25,000人あまりとなっており、近年も年300人ほどのペースで減少が続いている。
 遠野市の高齢化率は40パーセントを超えており、基幹産業である一次産業においても、担い手の高齢化が深刻な課題となっている。遠野市におけるホップ生産は、キリンビールとの契約栽培が始まった昭和38年から、既に半世紀以上の歴史を有するが、生産量、生産面積はともにピーク時の6分の1にまで減少しており、生産設備等のイニシャルコストに加え、作付けを開始してから2年間は売上げにならないといった参入障壁の高さから、新規就農者の確保も非常に難しいという八方塞がりの状況であった。

取組の内容と現状

 「遠野産」を前面に出した「とれたてホップ 一番搾り」(当時=現在の名称は「一番搾り とれたてホップ」)が発売開始となった平成16年から3年後の平成19年、遠野市は、「生産を続けることができるだろうか」(「一緒に支えていこう」というニュアンス)との危機感を抱いていたキリンとともに、「TK(遠野×キリン)プロジェクト」を発足し、「ビールの里」構想が始動した。「ホップの生産だけでなく、ビールを楽しめるまちづくりを」と、ビール文化の発信と定着を目指す取組は令和4年で15年目を迎える。現在ではプロジェクトの主体も、行政や大手企業による主導から、民間主導へと変化しつつある。
 生産面では、持続可能な生産体制の構築において、合理化と省力化が不可欠であったことから、地域おこし協力隊の導入とカップリング、大規模な圃場を引き継ぐ取組を3年ほど続け、集約化へとつなげていった。新規就農者を募るイベントでは、ホップの買い付けを行うキリンが生産者と並んで説明に立ち、良いものを作れば買い取ってもらえるという道筋の明瞭さに、関心を持つ人を多く見つけることができた。首都圏から「地方で農業をやりたい」と考える人は多いと、大いに手応えを感じたという。また、調査の結果、近いうちにホップの廃作を考えているところが幾つもあったことから、辞める予定の生産農家にお願いして、器具の貸出し(4軒)や作付け指導(11軒)の了承を取り付けた。結果、3年間で12名もの新規就農者の獲得に成功し、遠野で栽培されるホップの減少を食い止めることができたとのことである。平成24年には、「ビールに合うおつまみ野菜」としてパドロンの生産が開始され、7年後にはオランダ式の大規模ハウスも導入された。ハウスの整備費に5億円を要しているが、費用の内訳は農水省補助金2.5億円、キリンビールの出資1.5億円、農林中金からの借入金1.5億円となっており、市から予算の拠出は行われていない。
 観光誘客では、平成27年から「遠野ビアツーリズム」の取組がスタートし、第1回では2,500人だった「遠野ホップ収穫祭」の来場者数が、令和元年の第5回には12,000人に膨れ上がるまでになった。この間、JR東日本との連携協定により、「ホップ収穫祭」に行くための臨時列車(2本)や、仙台からのシャトルバス運行、通常列車の車両増結などの対応も行われている。規制緩和からのブームとは違う流れができ始めたことで、ふるさとが変わりつつあることを感じ取った遠野市出身の若者が帰ってくるようになり、キリンビール社員がIターンするケースも出ているとのことである。
 

所感及び大府市への反映

 前回、遠野市を視察訪問した際は、遠野醸造に御案内いただき、阿部部長との懇談の機会を得て、「ビールの里づくり」の取組や地域おこし協力隊の仕組みの活用、キリンビールとの連携などについて、熱い話をお聞かせいただいた。今も変わらぬ熱量で取り組まれていることがわかり、資料を拝見しながら改めて整理することができた。
 農業振興の観点では、「良いものを作れば買ってもらえる」として、出口が明瞭に見えていることが、担い手確保の面で非常に大きい。また、廃農を考えている農家に対して、ただ「続けてほしい」と頼むのではなく、器具の貸出しや作付け指導という別メニューを示して協力をお願いする手法や、新規就農者とのつなぎ役を行政が適切かつ着実に行っている点も、非常に参考となる内容であった。
 遠野市の事例については、地域の本来の特産物が入り口となっていることが極めて重要なポイントであり、本市としても、多くの特色ある農産物を起点として、その先の延長線上に何を描くかが何よりも肝要であると感じた。官民連携(農家、キリンビール、JR東日本、新規起業を市が橋渡しする)と、官官連携(地域おこし協力隊という仕組みや、別カテゴリーである農業と産業の振興策を市が総合的に組み立てて進める)を見事に使い倒している点でも、制度や政策への総合的な理解度の高さが有効に機能している好事例と言えるだろう。

 

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