原始古代

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ページ番号1007199  更新日 2018年10月22日

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原始

高山古墳

 市域で最も古い遺跡は、共栄遺跡(共栄町)で、旧石器時代のナイフ形石器が発見されています。
 縄文時代になると、衣ケ浦沿岸地域では多くの貝塚がみられます。縄文晩期(紀元前1000年頃から300年頃)の桟敷貝塚(朝日町)からは、土器・石鏃(せきぞく)が確認され、また弥生時代後期(2世紀から3世紀頃)の子安神社遺跡(共和町)からは弥生式土器が確認され、この地域にも米作りの技術が伝播したと推定されます。

 
 

古代

 古墳時代(3世紀後半以降)には高山古墳(中央町)や惣作遺跡(横根町)などの遺跡があり、境川流域で人々が生活していたと想定されます。

 6世紀、中央における大和王権が安定した時期には、地方に対する支配体制も整備され、この地域にも国造(くにのみやつこ、大和王権の地方官)・屯倉(みやけ)などが設置されました。尾張氏が国造に任じられ、当地域も同氏の支配領域となりました。7世紀中ごろから、律令国家を目指した中央は、地方制度も強化し、各地に国郡里(8世紀以降は郷になる)を設置しました。市域は尾張国に属し、境川の東は三河国となりました。
 国内には郡が設定されていましたが、平城京跡出土木簡などの史料の検討から市域が現在の知多郡(智多郡)とすべて重なることはなかったようで、共和町木ノ山付近は愛智郡との説もあります。『和名類聚抄』によると、知多郡には但馬郷・贄代郷・番賀郷・英比郷・冨具郷の5郷があり、大府市域は番賀郷に含まれると推定されています(『愛知県の地名』)。
 平安時代中期以降、日本各地で荘園制が展開してくると、尾張国衙領・熱田社領などの領域が入り乱れた状態で、市域の一部は熱田社領御幣田郷に組入れられ、また鳴海庄・生道郷・英比郷などの荘園の領域もあったようです。特に吉田第1号窯・吉田第2号窯(吉田町)からは、鳥羽上皇(1103から1156)が住んだ宮殿の鳥羽離宮東殿(京都市)で使用した瓦を焼いたことが発掘調査で確認されています。また、社山古窯(東海市)の瓦とは同范(どうはん)であることや周辺に輸田古窯・権現山古窯(共に東海市)が集まっていることなど、当地域が尾張国司を通じて都と関係していたことをうかがわせるとともに、当地域における荘園の展開と無関係ではありえないことが想定できる。

窯業生産

 5世紀後半に始まる須恵器生産や平安時代に草木の灰を釉薬として用いた灰釉陶器生産に続く、“やきもの”の生産が、三河国猿投山西南麓から尾張国東部の丘陵地に展開されました。これら古窯群は猿投山西南麓古窯群と総称され、その外縁が市域にも達していたことが野々宮古窯(宮内町)・高根山C古窯群(北崎町)・籠染西古窯(吉田町)などで確認されています。その後、灰釉陶器より粗い土を使用して焼いた中世山茶碗窯が市内全域でも生産されはじめ、平安時代末期を初現とし、鎌倉時代まで続きました。

 窯の築かれる場所は主に丘陵地で、現在までに市域では約100カ所(窯の数は推定で200基以上)を確認している。代表的なものは、中世山茶碗窯の初期と思われる高根山古窯群(北崎町)、瓦を焼いた吉田第1号窯・吉田第2号窯(吉田町)、広口長頸壺を焼いた神明古窯群(半月町)、市内最大の窯数を誇る羽根山古窯群(横根町)などがあります。

吉田第1号古窯遺物

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