近世

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ページ番号1007201  更新日 2018年10月23日

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近世

 関ヶ原の合戦後、尾張を支配した松平忠吉のあと、忠吉の弟義直(徳川家康9男)が尾張を継ぎ、彼を祖とする尾張徳川家(尾張藩)が成立しました。江戸時代を通じて市域は尾張藩の一部となりました。

慶長検地帳

 慶長7年(1602)以降、幕府は全国統一的な検地を実施しており、慶長13年に尾張藩でも検地が実施されました。このときの帳簿は、『慶長検地帳』と言われ、市内では、横根村・吉川村・半月村の分が残存しています。


 寛文11年(1671)、藩は領内の村を調査し、現状把握を行いました。その記録によると、市域には木之山村をはじめ11ケ村があり、主に農業生産を行う村だったようです。また『尾張徇行記』(文化年間成立)にも「農業ヲ専ラ生産トス」とする以外に特に目立つ産業の表記はありませんでした。農業生産を主力とした境川流域では積極的に新田開発が行われ、また鞍流瀬川流域においても、又右衛門新田や伊右衛門新田が開かました。

当時の地図

また衣ケ浦が最も奥まったところ(近崎村・北尾村・横根村・大符村など)は、境川の土砂堆積により次第に埋め立てられ、新田として開発される一方、排水問題が発生し、流域の五ケ村(現豊明市・大府市・東浦町にまたがる村と地域)は協力して悪水(不要な水)を処理する土木工事を実施し、川の新開削・杁の設置などを行いました。また内陸部では水の確保のため溜池の開削を行いました。


 農民の生活は、年貢などの各種負担のほか、東海道の宿場鳴海宿に近接した村々は、助郷として課役を負担していました。人と物との往来として、市域には東浦街道や緒川道があり、道しるべの石像や石柱が古い道の傍らに今も残っています。また隣国刈谷藩領内と交流もあったようです。
 18世紀後半、藩の在地支配の方法が変更され、領内各所に代官所(陣屋)を設置し、天明2年(1782)に鳴海陣屋が置かれ、市域の村はこの配下に入り、以後幕末まで続きました。

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