中世

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ページ番号1007200  更新日 2021年10月26日

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鎌倉・室町

 12世紀末期、鎌倉幕府の成立により、全国に守護地頭が設置されると、尾張国には守護として小野氏・中条氏・名越氏(北条氏一門)が任命され、また尾張国内の荘園には地頭が設置され、幕府の御家人が入部し、幕府の支配が及ぶようになりました。
 14世紀中ごろ成立した室町幕府でも守護地頭は設置され、守護には中条氏や土岐氏が就きましたが、その後知多郡は三河国守護一色氏(足利氏の支族)が治めることとなりました。しかし、市域に関する史料はほとんどなく、具体的な当時の状況はわかりませんが、応永16年(1409)正月11日付の「熊野旦那職譲状写」(『米良文書』)に「横根郷」が記されるなどわずかに地名が知られる程度です。
 14世紀末期、知多郡では、緒川(東浦町)の水野氏(鎌倉時代緒川郷の地頭であった小川氏の後裔)が旧地に戻り、緒川城を築いてこの地域に勢力を伸ばし始めました。初代城主水野貞守は、隣国の刈屋(現:刈谷)や横根・大府(当時は「大符」とか「大夫」とか「大部」と表記した)などを治め、大府市域は水野氏の支配下にあったと思われます。

戦国

延命寺全景

 応仁の乱以後、室町幕府の権力衰退とともに地方も乱れはじめ、尾張国内においても守護斯波氏にかわり守護代織田氏が実権を握りはじめました。
 緒川の水野氏は、知多半島北部に勢力の拡大を図り、三河の松平氏と衝突することが増加しました。


 水野忠政は、三河の松平氏と友好関係を結ぶため、天文10年(1541)に岡崎の領主だった松平広忠に娘を嫁がせました。この時産まれた第一子が竹千代(後の徳川家康)です。

 しかし、忠政の死後家督を継いだ水野信元は、西三河に勢力を伸ばす織田信秀と同盟を結び、知多半島北部の支配を盤石なものとしました。

 延命寺(大東町)には水野氏およびその関係者による土地の寄進状や売券などの古文書が伝来していて、市域が水野氏の支配下にあったことが裏付けられます。 

石ヶ瀬川

西への進出をもくろむ駿河の今川義元の勢力は尾張国にまでおよびはじめ、永禄元年(1558)から同4年にかけて、石ヶ瀬川畔(大府市と東浦町境付近)で織田氏対今川氏、水野氏対松平氏の合戦(石ヶ瀬の合戦)がたびたび起こり、織田・今川両勢力の攻防が知多半島各地の城をめぐって繰り広げられました。


永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、今川氏の勢力は後退しました。その後、水野信元の仲裁により、織田信長は松平元康(後の徳川家康)と同盟を結び尾張国を統一しました。市域には織田・今川の緊張関係をうかがわせる史跡として追分城(追分町)や首塚(中央町・若草町など)が伝えられています。

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